!

今回は、11カ月という常識外のスピードで世界初の新型コロナウイルスワクチンの開発に成功したビオンテック社のドキュメンタリー本『mRNAワクチンの衝撃』をご紹介します。

 

世界で初めて新型コロナウイルスに対するワクチンが接種されたのは、2020年12月の朝でした。

新型コロナウイルス感染症に対して成す術のない状態だった当時、すでに150万人の命を奪っていた新型コロナウイルス。一世紀以上前、いわゆるスペイン風邪によって何千万人が命を落としたときと同じ状況に、世界中の人々が見えない敵の恐怖に震えていたといっても過言ではありません。

まさに本書冒頭にある「それは、世界が見つめた注射だった」という一文に、人々の期待や不安、緊張感が伝わってきます。

新型コロナワクチンすなわち、mRNAワクチンは、どうやらこれまでのワクチンとは違い、歴史に残るほどの医療界の革命だったらしいのです。

 

そんな新型コロナウイルスのワクチン製造企業と言えば、ファイザー社とモデルナ社が代表的であるため、ビオンテック社と聞いてもピンとこない人が多いかもしれません。

私たちがよく知っているファイザー社製のワクチンですが、ファイザー社は発売元であり、開発・製造を行っているのは、ビオンテック社というドイツのマインツに本社を構えるバイオベンチャー企業なのです。

私自身、恥ずかしながら本書に出会うまではファイザー社が開発したものだと思い込んでおり、ビオンテック社の歴史的快挙を知る由もありませんでした。

余談ですが、ドイツのマインツというと、世界三大発明の1つである活版印刷術を発明したヨハネス・グーテンベルクが連想され、マインツには不思議なエネルギーがあるのではないかと思ってしまったのは私だけでしょうか。

 

さて、タイトルにある「mRNAワクチン」については既に知っている方も多いかもしれませんが、ワクチンにはいろいろなタイプがあり、「メッセンジャーRNA(mRNA)」という物質を使用したワクチンができたのが世界で初めてであり、これがまさに「衝撃」らしいのです。

この「mRNA」はタンパク質に翻訳される遺伝子情報を持っている物質であることから「遺伝子ワクチン」とも呼ばれています。ファイザー社製(ビオンテック社)、モデルナ社製の新型コロナウイルスワクチンは「mRNAワクチン」で、アストラゼネカ社製ワクチンはmRNAではなく、ウイルスベクターワクチンというタイプのようです。

 

本書の著者は、ワクチン開発までの過程を同時進行で密着取材することのできた数少ないジャーナリストの1人で、フィナンシャル・タイムズ紙フランクフルト特派員のジョー・ミラーという人です。コロナ禍にありながらも、科学者、政治家、公衆衛生当局、ビオンテック社員など50人以上への取材を重ねたが故に伝わってくる、mRNAワクチン開発競争内幕の臨場感には間違いなく圧倒されてしまいます。

 

さらに、本来は難題であるはずの科学について、例えを使って分かりやすく解説するなど、誰でもが理解できるように工夫されているため、科学や医療の専門家のみならず幅広い方々にお勧めできる1冊となっています。

本書を読み進めると、感染症医薬品を治験にかけたことがなかった赤字企業とワクチンという手法が運よく有効だったウイルス、承認医薬品の活用で常にアメリカに後れをとってきたヨーロッパという舞台で繰り広げられた、世界を変えてしまうほどのイベーションがどのように生み出されたのか、まるで推理小説を読むような展開に衝撃を受けるだけでなく、mRNAワクチンの登場がタイトルの通り「衝撃」であったことがわかります。

 

 

成功の秘訣はビオンテック社の共同創業経営者ウール・シャヒンとエズレム・テュレジ

11カ月という奇跡的なスピードで開発されたmRNAワクチン。

この世界初の快挙であるビオンテック社の成功の秘訣は、RNAではなく、夫婦であり、共同創業経営者であるウール・シャヒンとエズレム・テュレジという2人の人間だと言っても過言ではないかもしれません。画期的なワクチンの仕組みはもちろんですが、優れた洞察力と迅速な判断力がmRNAワクチン開発を実現させたと思わざるにはいられません。

夫のウールは最高経営責任者で分子生物学博士、妻のエズレムは最高医療責任者で免疫療法博士であり、1990代に2人が偶然出会ったことがビオンテック社のはじまりです。

 

ビオンテック社は2008年の創業以来、mRNAを使った「がん免疫療法」を開発している会社でした。mRNAは扱いにくい分子であったものの、多くの研究者の努力によって次第に治療薬として使える可能性が見えてきていた矢先、新型コロナウイルスが発生します。

ウールは、2020年にランセットに掲載された新型コロナウイルスの報告から、これから起こるパンデミックをいち早く予測し、がん免疫療法から新型コロナウイルスワクチン開発へと舵を切ったようです。感染者数が千人にも満たない時点で、ワクチン開発を決断した鋭すぎる洞察力と先見性には驚愕せずにはいられません。

 

本書を読み終えると、ウールの起業家精神とリーダーシップ、夫婦の指導力が世界中の人とアイデアを引き寄せ、多くの人が協力し、様々な難題に立ち向かっていく展開が息を呑むほど素晴らしく、将来は映画化されるのではないかと思っています。

ちなみにお2人は、テレビやニュースを見ずに確かな論文等を情報入力源としていたり、莫大な利益を得ても質素な生活を続けていたりするような、そんな人達だそうです。

わずか88日でヒトに投与するmRNAワクチンを開発

ウールが世界のパンデミックを予測し、自らの会社の資産や生産体制を全て新型コロナウイルスワクチン開発に振り切り、ワクチン開発チームを組織してからわずか88日でヒトに投与するワクチンの開発にこぎつけることになります。

ビオンテック社は、治療対象である「がん」を攻撃する免疫療法のプロセスを完成しつつあり、丁度そのタイミングで新型コロナウイルスによるパンデミックが起こったわけです。

2019年、中国の武漢を皮切りにヨーロッパへ感染が広がり、中国の研究者がウイルスの遺伝子配列をインターネットに公開したのが2020年1月10日、ウール夫妻が自分たちが開発しているmRNA技術で新型コロナウイルスに対するmRNAワクチンを作ることを決意したのは1月21日。決断までたったの11日です。

そこからウールの「Project Light Speed(光速プロジェクト)」が始まり、僅か88日でヒトに投与するワクチンを開発させたのです。そしてワクチンが承認されて最初の一般人に接種されたのが2020年12月8日。ワクチン開発を決意した日から僅か10カ月と18日後です。

 

新型コロナウイルス発見以前の20年間に行われた数千件の治験を調査した研究では、世界的な大手製薬会社が数十億ドル規模の資金を投じても、約60%のプロジェクトは失敗に終わっていると言うため、治験のプロセスが至難のわざであることは治験に携わったことのない私にも理解することができます。

 

科学や医療に関わっていない場合、ワクチン開発までの11カ月という期間がどれだけ奇跡的な速さなのか分かり難いかもしれません。調べてみると、これまでに開発されたワクチンの中で、ウイルスの分離から承認までの期間が最も短かったのは1960年代に開発されたムンプス(流行性耳下腺炎)ワクチンで、それでも4年だそうです。

(参照:https://www.nature.com/articles/d41586-020-03626-1)

 

11カ月足らずで開発に至ったこのmRNAワクチンが、いま、何十億人に接種されているという現実を思うと、ビオンテック社の進化と新型コロナウイルスの感染拡大、ワクチンの開発から供給に至るまでの緊張感溢れる経緯を知ることの意義を感じずにはいられません。

ビオンテック社が使用した「mRNAワクチン」とはどんなものなのか

もともとはがん治療で用いることを目的に進めていた、メッセンジャーRNA(mRNA)という物質。新型コロナウイルス発生当時、mRNAを用いて「がん」を攻撃する免疫療法のプロセスを完成しつつあったといいます。

そのプロセスというのが、がん(抗原部分)のDNA配列に相応するmRNAを人工的に作り出し、そのmRNAをがん患者に投与します。そうすると私たちの体(生体)はmRNAから抗原タンパクを作り出します。その抗原タンパクは私たちの免疫システムから攻撃目標として認識され、免疫反応を引き起こすらしいのです。そして、この活性化された免疫反応で「がん」そのものが攻撃される、というのが一連のプロセスのようです。

そして、この技術を応用する手がかりはウイルスの名前にあったと言います。コロナウイルスは、ウイルス表面から無数の突起(スパイク)が突き出た形状が王冠(ラテン語でcorona)に似ていることからついた名称です。この丸くふくらんだ突起はタンパク質から成り、これが新型コロナウイルスの図解で必ず登場する「スパイクタンパク質」で、これこそが今回のウイルスの脅威をここまで高めた元凶とのこと。

新型コロナウイルスのスパイクタンパク質は、肺の細胞表面の特定の受容体と結びつくことができてしまうようなのですが、それはこのウイルスの弱点でもあり、この突起を無効化させるように免疫系に教え込めば、健康な細胞との結合プロセスが阻害され、ウイルスを無害化できるという理論がベースとなっています。

ただし、このターゲットの特定だけでは不十分であり、ミス1つないスパイクタンパク質のコピーを生成するという「精度」が重要だと言います。コピーの精度が悪ければ、ワクチン接種によって免疫反応を引き起こしたとしても、実際の感染によって入ってきた本物のウイルスを認識できないからです。これを本書では、ワクチンに持たせる「指名手配ポスター」と例えており、犯人を完璧に描いたものでなければ意味がなく、へたくそな似顔絵では何の役にも立たないと。なるほど、納得です。

 

mRNAワクチン技術が今後の医療にもたらすインパクトへの示唆とは

mRNAは珍しい疾患や治療の難しい疾患を根絶する薬剤を生み出せるとウールは言い、本書で示されている一例として多発性硬化症の治療薬の試験が進んでいることが示されています。多発性硬化症は身体の誤作動により健全な細胞が攻撃されるため、mRNAの力を利用して、免疫反応を引き起こすのではなく抑制するそうです。すなわち、免疫部隊に正反対の指示を与える「指名解除ポスター」を送り込むことで、免疫部隊の警戒態勢を解き、敵と味方を適切に区別するよう促すことができるようです。

このように免疫系とコミュニケーションがとれるmRNAは、いずれ、アレルギーから心臓病まで、あらゆる疾患への対応に利用されることになるかもしれないと語られています。

「理論的にはどんな機構であれ、そのメカニズムが十分に解明されているのであれば、それを操作することはできる」と言うエズレムは、将来的にはmRNAにより老化プロセスを逆転させることさえ可能だと確信しているとも明言しています。

また今回のワクチンは、mRNAの第一世代であり、さらに新世代のプラットフォームが既に出番を待っている状況だそうで、これらのテクノロジーによる革命が、疾患に苦しむ多くの人々がより受け入れられやすい「新たな常態」を生み出すに違いない、と。そして「これはまだ始まりにすぎません」と言うエズレムの言葉から、医療の革命がはじまったことを強く認識し、今の常識が確実に変わっているであろう将来があると確信した人は多いのではないでしょうか。

ウールとエズレムの言葉たちが胸に響く

本書のいたるところに散りばめられているウールとエズレムの言葉たちが個人的にとても気に入っています。

 

エズレムが好んで強調する「イノベーションは一度には起こらない」という一言が、本書を読み終えたときに、とても重みをもって聞こえてきます。

いくつもの個々の発見が、ときに何のつながりもない分野で同時に起こり、積み重なっていく。テクノロジー、人員、資金、何相にも及ぶ治験、政治的駆け引き、チーム力、指導力など、さまざまな要素が絡み合いながら進行していく今回の壮大なドラマを知ると、ワクチン開発は単に研究が好きなだけでも、資金やテクノロジーがあるだけでも完成しないのだと知ることができます。

また、チームの1つひとつの発見が、それ以前の数々のブレイクスルーの上に積み重ねられていくことを語りながら、「完璧の域に到達することはありません」「最適バージョンは、いつだってそのときの最適バージョンにすぎないのです」と言うウールの言葉に、これまでも、これからも、こんな風に行動力を持って信念を貫いた人たちがイノベーションを起こすのだろうと感じました。

また、本書の中でウールが哲学的に回想する言葉は、科学や医療など分野を問わず、イノベーションに関わる様々な人の背中を押してくれるような気がしました。

(本書より抜粋)

「ときには実験室が呪われているんじゃないかと感じることがあります。十分に試行を重ねた日常的な手順が突然うまくいかなくなって、エラーが忍び込む。トラブルシューティングを始める。すべてを疑ってみる。試薬を変えて、一つひとつのステップを繰り返して、それでもやっぱり全てが上手くいかない。ボールがおかしな方向へ跳ねていって簡単なパスすら通せない、そんなサッカーチームでプレーしているような気持ちになります。自信が揺らぎます。こうした状況では、チームにプレッシャーをかけてはいけません。批判してはいけない。励まして自信をつけさせなければならないのです。すると突然、ボールがまた転がり出して、みんな世界チャンピョンのようにプレーしはじめます」。

 

誰もが信じることができなかったほどの驚異的なスピードで実現した開発の背景には、ワクチンを作る苦労だけでなく、スピードを最優先するウールに対する社内の戸惑いや許認可手続き時の公衆衛生当局との軋轢、ファイザーとの提携交渉の難航など、数えきれないほどの苦悩があることを私たちは忘れてはいけないのだと思いました。

 

 

ここには書ききれませんが、mRNAワクチンがどうしてこれほど早くつくられ、これほど効果があるのか、ワクチンの仕組みや製造方法、技術的な課題、副反応とは何なのか、イギリスが先行してワクチン接種が進み、EUが遅れた政治的な舞台裏など、とにかく面白い内容がこの1冊に詰めこまれています。

 

本書を通して無名だったウールとエズレムの人望と行動力を知り、世界を変えたイノベーションの一部を知ることができたことに心から感謝するとともに、この革命により、現代の常識を覆してくれるであろうmRNAの動向を追いかけ続けたいと思いました。

私は生物学に携わる専門家ではありませんが、ちいさな成功の積み重ねが人類の命を救うことに繋がるのだということを確信し、どこか遠いところでも、ものすごく小さなことでも、人や社会の助けになる何かしらの一端になりたいという想いが込み上げてくるような読後感でした。

 

ワクチン開発に成功したビオンテック社のドキュメンタリーという紹介では伝わらない、大きく心を揺さぶられる本書は、社会人はもちろんのこと、学生にもお勧めしたい1冊です。

執筆

大西安季

 

理学療法士。筑波大学大学院人間総合科学研究群在籍。理学療法士として、就労世代から高齢者まで、幅広い世代の健康づくり・健康教育に関わっています。介護予防、疾病予防、健康寿命延伸といった取組みに特に興味があり、世の中にある沢山の情報を多くの人と共有し、より良い生活の一助となることを目指して活動中です。

この記事をシェア

編集部おすすめ記事

人気記事ランキング